長嶋茂雄「六大学新記録と南海を逆転した巨人スカウト陣の秘策」 (5/5ページ)
立大で長嶋の2年先輩で、南海に入団した大沢啓二(当時は昌芳)が、東京遠征に来ると東長崎の寮を訪ね、長嶋と杉浦忠を食事に誘い、口説いていたからだ。帰り際には、「門限に遅れちゃいけないから、タクシーで帰れ」と、多額のタクシー代を渡すのが慣例だった。いわゆる“栄養費”である。
大沢の暗躍で南海がリードしていた長嶋争奪戦だったが、あることがきっかけで雲行きが変わってしまう。昭和32年の夏だった。南海からプロ入りの具体的な条件を提示された際、長嶋も杉浦も愕然としたのだ。大沢から渡されていたタクシー代や、飲み食いした金を契約金から差っ引くというのだ。このセコさに、長嶋も杉浦も、南海への思いが急激に冷めてしまった。2人は寮の隣に住んでいた立大OBの田中稔に相談を持ちかけた。田中は当時、サンケイ新聞のアマ野球担当記者だった。砂押監督とは同期で、昭和22年のチーフマネージャー。立教大野球部の生き字引のような存在で、当然、大沢が動いているのも知っていた。「分かった。南海のことは白紙に戻して、どこに入りたいか自分で考えてみろ」
すると、長嶋は「できれば巨人でやりたい」と打ち明けた。母親のちよが、「お父さんも死んでしまったし、お前は近くにいてほしい」と言ったからだった。田中は読売新聞の辻野実に相談した。当時、読売のアマ野球担当だった辻野は、巨人フロントの長嶋獲得戦略に疑念を抱いていた一人だった。巨人フロントは、長嶋の兄の武彦を押さえていたが、辻野は「そんなものは空手形になる」ことを知っていた。辻野はスカウト部門の責任者である宇野庄治代表を通り越し、品川主計球団社長に連絡。品川社長の命令で、長嶋の交渉窓口は武彦から田中に変更された。
以降、“田中ルート”で、長嶋との交渉はトントン拍子に進んでいった。長嶋が巨人と交渉を進められたのは、親友である杉浦の男気もあった。杉浦は大映からも熱心に誘われていた。南海との関係を白紙にしたあと、杉浦の実兄が大映本社で永田オーナーと面談しているが、杉浦は南海入りを決断した。「シゲよ、2人とも南海に行かなかったら鶴岡(一人監督)さんに申し訳ないし、大沢さんの顔も潰すことになる。オレは南海に行くから、シゲは巨人に行け」
杉浦にこう言われて、長嶋の心は決まった。「スギのひと言は、本当にうれしかった」 長嶋は、平成13年11月に杉浦が死去した際、真っ先に大阪に飛んで行き、杉浦との別れを惜しんだ。長嶋は終生、杉浦への感謝を忘れなかった。