貴乃花「鬼の形相」上手投げ! 大相撲「伝説の一番」舞台裏 (2/5ページ)

日刊大衆

 結びの一番、武蔵丸との対戦は、武蔵丸が右に変わっての突き落としで勝ち、2敗で並んだ2人は優勝決定戦に進んだ。「あのときの貴乃花は、誰が見ても相撲を取れる状態ではなかった。決定戦に出てきたときは、館内のお客さんも息を飲んで見つめていましたね」(専門誌記者)

 そんな状況の中、奇跡は起こった。貴乃花は左ノド輪から左上手を取り、武蔵丸が左上手を取りにいくところを気力を振り絞って、上手投げを決めたのだ。

 勝利の瞬間、貴乃花が土俵上で見せた気迫の表情は、「鬼の形相」と称された。表彰式では、小泉純一郎首相(当時)が、「痛みをこらえて、よく頑張った! 感動した‼」と貴乃花の奮闘を称えたが、これが貴乃花最後の優勝となってしまうとは当時、誰も思わなかっただろう。

■旭天鵬「涙の初優勝」

 気迫が呼び込んだ「涙の初優勝」と言えば、12年夏場所、平幕・旭天鵬の優勝も思い出深い。5日目を終えて2勝3敗だったが、6日目から10連勝。当の友綱親方は、こう振り返る。「13日目くらいから、激励の電話やメールがものすごくて……。もともとは優勝を狙っていたわけじゃなかったけれど、“せっかくのチャンスだから、1回は優勝してみたいな”という気持ちに変わったんです」

 千秋楽、優勝の行方は、同じく3敗の平幕・栃煌山との決定戦に持ち込まれた。「ここまできたんだから、出せるものは全部出そう!と、リラックスして相撲を取れた」と語る旭天鵬。その言葉通り、土俵際の叩き込みが決まり、優勝を決める。このとき、37歳4か月。旭天鵬のみならず、花道で見守った付け人や後輩たちも涙を流して優勝を祝福していた姿は印象的だった。

 昭和40年代(1965~75年)には、多くの個性派力士が存在した。のちに父(師匠の先代・増位山)と同じく、大関の地位まで昇り詰めた増位山も、その一人である。競泳で鍛えた抜群の足腰で、内掛けなど多彩な技でファンを沸かせたが、1974年夏場所5日目の魁傑戦は、大熱戦となった。

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