美少年に惚れやすく…男色が災いし自家を滅亡まで追い込んだ戦国大名「蘆名盛隆」の恋バナ (3/4ページ)

Japaaan

当然、このことを聞いた盛隆は大激怒。2人を殺害しようとしますが家臣に止められ、所領の取り上げと家督相続の中止を行輔に処しました。

これには行輔もさすがに怒り心頭。その後盛隆が留守中に謀反を起こし、盛胤と蘆名氏の居城である黒川城を占拠してしまいました。

しかしすぐに鎮圧され、2人は処刑となりました。

男好きの果てには

先の一件から盛隆は男色を控えるかと思いきや、懲りずに美少年たちにちょっかいを出し、それに嫉妬する人物まで現れました。その人物は大庭三左衛門(おおば-さんざえもん)で元は二階堂氏の者でしたが、盛隆たっての希望で盛隆の家来となりました。

最初は盛隆から寵愛されていましたが、時が経つにつれ疎まれていきます。そして、盛隆は三左衛門のことを「冷めて(醒めて)は食えぬ」の意味を込めて「鴨汁」と裏で呼んでいました。

巡り巡ってこのことを知った三左衛門はひどく落ち込み、盛隆を恨ましく思い始めます。さらに盛隆は面白がって三左衛門に「御前に出る朝ご飯は鴨汁なので、よかったら食べていきますか?」と小姓に伝言させる悪質な嫌がらせをします。

この出来事を境に三左衛門は今まで我慢していたものがプツンと切れました。

そして天正12年(1584)、盛隆は三左衛門に暗殺され、24歳の短い人生を終えました

その後の蘆名氏は盛隆の死によって衰退していき、天正17年(1587)の摺上原の戦いで伊達政宗に敗北したことがきっかけで滅亡を迎えています

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