戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【ニ】 (2/4ページ)
「……これで島津に勝てる!」
正親らは率先して秀吉に臣従することで本領を安堵。天正十五1587年5月にはさすがの島津氏も降伏し、肥後国は秀吉の側近・佐々内蔵助成政(さっさ くらのすけ なりまさ)が支配することとなりました。
「まぁ、ひとまずは安泰かのぅ……」
聞くところによれば、秀吉は成政に対して「九州の支配については、在地の慣習や文化を重んじ、決して性急な変化を加えぬように」諭したそうですから、平和な暮らしの中で、徐々に生活が改善されていくのだろう……多くの者がそう思っていたことでしょう。
しかし、既に年老いて病を得ていた成政は、勢力基盤を確かなものにしておこうと功を焦るあまり、性急な検地を強行。年貢の負担が重くなったことにより、肥後国の国衆がこぞって不満の声を上げました。