戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【ニ】 (3/4ページ)

Japaaan

「おい、関白様の話と全然違うじゃねぇか!」「おのれ内蔵助め、わしらを田舎者と見くびりおって!」「こうなったら、肥後国衆の意地を見せてやらぁ!」

天正十五1587年7月、ついに隈部刑部允親永(くまべ ぎょうぶのじょう ちかなが)・親泰(ちかやす)父子が隈府城(わいふじょう。現:熊本県菊池市。別名菊池城)に立て籠もって叛旗を翻します。

「内蔵助、討つべし!」続々と決起した肥後の国衆。

思わぬ叛乱に慌てた成政は急きょ討伐の軍勢を派遣しますが、攻略に手こずる内、肥後の国衆が次々と呼応。叛乱軍は最大で約35,000余にも膨れ上がりました。

決起に逸るばかりが勇気ではない……肥後国衆一揆への加勢を断る

しかし、後世「肥後国衆一揆(ひごのくにしゅういっき)」と伝えられた一大叛乱に、正親たちは与(くみ)しなかったようです。

「……刑部らに勝ち目はなか」

肥後の国衆は古来「お山の大将」気質が強く、誰かの下について協力することを極端に嫌う独立自尊の気質。後に「薩摩の大提灯、肥後の腰提灯」などと呼ばれるように、一つの大きな提灯でみんなを照らすより、各自で提灯を身に着けて気ままに行動したがるのでした。

一致団結して九州随一の精強さを誇った薩摩の島津氏ですら屈伏を強いられた豊臣の軍勢に、てんでんばらばらの肥後国衆が勝てる見込みはありません。

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