歴史を変えた“戦国めし”を再現「信長は“湯漬け”をかっこんで桶狭間へ」 (2/3ページ)
このほか、戦国時代以前には、「屯食(とんじき)」と呼ばれた握り飯も戦陣食としてあった。
本能寺の変で信長の死後、秀吉と柴田勝家が対決した「賤ケ岳の戦い」の際に、秀吉は大垣から近江までの50キロ余りをわずか5時間で移動したといわれるが、この時には、移動の途中にある村の庄屋や大百姓に使者を送り、通過する秀吉軍の兵に倉の米を炊いて屯食を提供するように手配していた。そのおかげで食事休憩を取ることなく移動することができたという。現在でも忙しい外回りの営業マンや屋外が現場の仕事人にとっては、場所を選ばず素早く食べられる握り飯はなにかと重宝される。日本が誇る携帯食と言えるだろう。
「味噌玉」は、味噌の中に生姜や山椒などを練り込んで丸め、焼いて玉にして携帯したようだ。
「兵隊たちは大変な労働を強いられて大量の汗をかくので、塩分やミネラルの補給に味噌は必需品でした。各地を転戦していた武田信玄の軍団では、くず米や糠に塩、麹を加えて布袋に包んで腰にぶら下げておくと、行軍の揺れも手伝って数日のうちに即席の味噌が出来上がったという『陣立て味噌』なる、即席味噌づくりも行われていました」(河合氏)
戦場食とも言える「干し飯」は、一度蒸した米を天日で干して乾燥させたもの。その食べ方について、河合氏が続ける。
「蒸したもち米を水で洗って干したあと、杵でついてザラメのような細かい粒にして、食べる時には再び水で戻したようです」
足軽たちは2〜3日の戦については、自前でこれらの保存食や屯食を用意していくのが普通で、それ以上の行軍となる場合には、1日5合程度の米が支給されたという。
1日5合のご飯は、今からみると多い気がするが、かの宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」では「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあるから、昔から日本人のエネルギーの源はガッツリ食した米であったということだ。