なんと生涯で敗訴73回!それでもめげない戦国武将・曲淵吉景のまっすぐで不器用な人生 (5/6ページ)

Japaaan

「おのれ……これは、御屋形様(晴信)が命じたに違いない!」

主君の仇!とばかりに晴信へ詰め寄った勝左衛門でしたが、誤解である(反省次第では赦すつもりでいた)ことが解ると素直に非礼を詫び、また晴信も「(どんなにダメな主君でも)最期まで忠節を尽くした」ことを評価し、赦したという事です。

山縣昌景(三郎兵衛)。武田の赤備を率いて、その勇名を諸国に轟かせた。

以降は武田家きっての猛将・山形昌景(やまがた まさかげ)に仕え、名前から「景」の一文字を拝領して吉景と改名。武田家の精鋭部隊である「赤備(あかぞなえ)」の一員として、かつての同輩である郷左衛門や伝右衛門と共に暴れ回ったのでした。

エピローグ

勝左衛門は武田家滅亡(天正十1582年)まで戦い抜いて武功を重ね、その後は武田旧臣を取り込んだ徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えて小牧・長久手の合戦(天正十二1584年)や小田原征伐(天正十八1590年)に従軍。

長久手の武功によって家康から兼光(備前長船。刀)を拝領したとも言われ、苗字をとった「曲淵兼光(まがりぶちかねみつ)」として現存しているそうです。

刀と言えば、かつて勝左衛門が恩賞として晴信から脇差を賜ったところ、何が気に入らなかったのか「こんなもん要るか!」と投げ返したことがあったそうです。

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