なんと生涯で敗訴73回!それでもめげない戦国武将・曲淵吉景のまっすぐで不器用な人生 (2/6ページ)
信方は甲斐国の戦国大名・武田信虎(たけだ のぶとら)の家老で、信虎の嫡男である武田晴信(はるのぶ。後の信玄公)の傅役(守役)を務めています。
この頃、甲斐国を統一した信虎はしきりに信濃国(現:長野県)へ侵攻しており、勝左衛門も信方に従って各地を転戦しました。
同輩の広瀬郷左衛門(ひろせ ごうざゑもん。景房)や三科伝右衛門(みしな でんゑもん。形幸)と共に先鋒を務めて武功を競い、足軽大将として板垣家中の筆頭に昇りつめていきます。
天文十1541年に晴信が父・信虎を追放すると、信方は両職(武田家の筆頭家老)となっていますが、勝左衛門は主君の威光を嵩に着るようなこともなく、ひたすら忠義に励んだそうです。
しかし、曲がったことの許せない性格だったようで、
「……白黒はっきりつけようじゃねぇか!」
世の不条理に片っ端から立ち向かおうと、起こした訴訟は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に記録されている限りで75回。どんなに正義の動機であろうと、正直トラブルメーカー以外の何物でもありません。
「……またお前か……」
訴訟を取り裁く奉行たちも、いい加減うんざりしたでしょうが、凄まじいのはそれだけではありません。
75回にも及ぶ訴訟の内、勝訴できたのはたったの1回、ほか和解した1回を除いて、残り73回はすべて敗訴。ほとんど負けっ放しです。
「あのなぁ勝左、世の中ってのは正論だけでは通らんのじゃよ……」
「やかましい!間違っておるものは間違っておるのじゃ!」
73回もの敗訴にもめげることなく、どこまでも正義を求めて暴走した勝左衛門でしたが、そのタフなメンタルには驚かされるばかりです。