政略結婚にも愛はあった。武田家滅亡に殉じた悲劇のヒロイン・北条夫人【上】 (3/6ページ)

Japaaan

家老たちの無難な策を採りたいところだけど、そうすると何か悔しいし、もし取り巻きたちの言う通り織田・徳川が少なく、蹴散らす事が出来れば、家老たちも自分を認めざるを得まい……!

長篠の合戦。結果だけ見れば何とでも言えるが、現場には現場の葛藤と決断があった。「長篠合戦図屏風」より。

かくして「ここを決戦場とする!」と決断、全軍突撃を命じた勝頼ですが、欲に駆られた選択がよい結果を招くことは少なく、案の定と言うべきか織田・徳川は伏兵を隠しており、武田軍は散々に打ち負かされてしまいました。

「あーあ、だから言ったのに……」

長篠の合戦で多くの兵を失い、いわゆる「武田二十四将」と謳われた名将たちも多数討ち死に。這々(ほうほう)の体で甲斐国へと逃げ帰った勝頼は、抜本的な再建施策を求められます。

「……やむを得まい。現在対立している東の北条家と、再び同盟を結ぼう」

北条夫人が勝頼の元へ嫁いできたのは、そんな状況下でのことでした。

幸せな新婚生活。しかし……。

さて、晴れて?夫婦(めおと)となった二人ですが、北条夫人は14歳、勝頼は32歳(天文十五1546年生まれ)。その年齢差は18歳と、親子でもおかしくないほど離れていました。

これから、むしろ彼の連れ子(亡くなった前妻の子)である武王丸(たけおうまる。

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