政略結婚にも愛はあった。武田家滅亡に殉じた悲劇のヒロイン・北条夫人【上】 (4/6ページ)
後の武田信勝、11歳)の方がよほど釣り合いそうなものですが、北条家としては「当主自身の正室として、より重く扱うべし」という意向、つまり「今度は裏切るなよ」と言うメッセージが込められていたのでしょう。
ともあれ夫婦仲は円満で、また北条夫人は3歳下の信勝を実子のように慈しみ、信勝もまた北条夫人を母として敬ったということです。
武王丸(武田信勝)。実子でなくても、北条夫人は惜しみなく愛情を注いだ。高野山持明院蔵(Wikipedia)
※ちなみに、北条夫人自身は史料によって子を産んだという記録と、産まなかったという記録があります。
そんな幸せな家庭生活の傍らで、武田家は北条と同盟しながら再び力を蓄えていたのですが、天正六1578年に越後国(現:新潟県)を治めていた「越後の龍」こと上杉謙信(うえすぎ けんしん)が亡くなると状況は一変。
謙信には実子がおらず、その養子となっていた上杉景勝(かげかつ)と、上杉景虎(かげとら)が後継者争いを開始したのでした。