足利義昭までの15将軍の黒歴史を発掘!10代義稙は流浪の“ゾンビ将軍”だった (1/4ページ)

Asagei Biz

足利義稙
足利義稙

 初代将軍の足利尊氏から最後の足利将軍となった義昭まで、歴代15人の知られざる“へっぽこな素顔”に歴史家の河合敦氏とタレントのれきしクン(長谷川ヨシテル氏)が、わかりやすいキャッチフレーズをつけてくれた。

 室町幕府を開いた初代・足利尊氏(たかうじ)を「あげ好き、お人よし、臆病将軍」と名付けたのは河合氏。

 尊氏のもとには各地から贈り物が届くが、その日のうちに全部部下にあげてしまって、夕方には何も残っていないというくらい気前がよかったという。

「権力や物には興味がない人で、躁鬱病なのか、時々いろんなことが嫌になって出家騒動や引退宣言を繰り返し、部下をハラハラさせている。後醍醐天皇の死後、怨霊の祟りを恐れて京都に天龍寺を建てたり、憶病な面もあった」(河合氏)

 一方のれきしクンは「現実逃避のムラッ気将軍」と評する。

 2代の義詮(よしあきら)は、鎌倉生まれで、20歳の時に初めて京都に入ったものの、京都を追い出され、また戻るを何回も繰り返した。最後は、病気で鼻血を出して死んでいるので、河合氏は「いぶし銀の動乱鼻血将軍」と命名。

 れきしクンは、無理に戦うよりも逃げて態勢を立て直してまた戻るというのは、現実主義でつなぎの2番バッターとしては優秀だったと「リアリストの脱出&リカバリー将軍」との称号を与えた。

 3代義満(よしみつ)は、金閣をはじめ、花の御所を作った文化人だが、一方では意に沿わない部下や大名を切り捨てる暴君でもあった。義満がまだ幼い頃、播磨から京都に戻る際、摂津の景勝地を見て「この地を舁(か)いて(担いで)京都に持って行け」といった逸話や、公家たちに早朝の蹴鞠につきあわせ遅刻すると厳しく罰するなど相当なパワハラで、れきしクンは「ムチャぶり、パワハラ将軍」と言い切る。返す刀で河合氏は、

「年下のイケメン・世阿弥(ぜあみ)に惚れて祇園祭の桟敷席に連れて見物するなど男色趣味もあり、一方で女好きで、後円融(ごえんゆう)天皇のお后に手を出してもいる」

 と、「公武の頂点を極めたバイセクシャル公方」と評する。

 続く4代の義持(よしもち)はどうか。河合氏が言う。

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