宗教なくして無神論は生まれなかった。無神論は何に救いを求めるか。 (2/4ページ)

心に残る家族葬



■無神論者は強いのか

西洋史家・竹下節子は「真の無神論者」を論じるイエズス会のピエール・シャロン(1541〜1603)について次のように述べている。

「興味深いのは、シャロンが、真の無神論者は稀である、なぜなら無神論者であるには魂がつよくなければならないからだと言っていることだ。絶望とたった独りで向かい合う無神論者には一種悲劇的な偉大さがある〜略〜ともあれ、無神論が『強者の論理』として明確に位置づけられたのは注目に値する」(竹下節子「無神論―二千年の混沌と相克を超えて」)

若く健康なうちに無神論を気取っていても、余命宣告を受けた病床においてなお無神論を貫くのは難しいだろう。神がいないということは、自分が置かれている絶望的な状況に、神が与えた試練などといった超越的な意味は存在しないことになる。単に病が身体を蝕み死=無が近づいているだけのことだ。平常時に科学がどうのとクールな態度を取っているうちは真の無神論者とは言えない。生命の崖っぷちに立ちながら神の救いの手を拒否する強靭な意志こそ無神論者の姿といえるだろう。目前に迫る死神が恐ろしくないはずはないのだが、そこまでして神を拒否するのは何故だろうか。信じた方が楽ではないのか。非科学的であるからなどという理屈を述べている場面ではない。ペシミズム(虚無主義)に陥っている可能性もあるが、やはり孤独に死を独りで受け止める意志こそ人間の自立の証であり、彼らの矜持なのだろう。その矜持こそ彼らの救いなのかもしれない。確かにその強さには「悲劇的な偉大さ」を感じる。

それと比べるなら神を信じる信仰者の心は弱いといえる。弱いからこそ神に頼る。そして、それゆえ強くなることもあるのだ。織田信長(1534〜82)を最も恐れさせたのは、一向宗(浄土真宗)の阿弥陀仏への絶対的な帰依であった。阿弥陀仏に全てを任せている一向宗に死は恐怖はならない。敵に回して最も恐ろしいのは死を恐れない人間であろう。真の無神論者と一向宗のような真の信仰者に共通するのは、自らの信じる道に一点の曇りも無いことである。ここに至り無神論者にも信仰者にも悲劇的な偉大さを見出すことができる。
「宗教なくして無神論は生まれなかった。無神論は何に救いを求めるか。」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る