宗教なくして無神論は生まれなかった。無神論は何に救いを求めるか。 (3/4ページ)

心に残る家族葬

強靭な意志は無神論者だけのものではない。

■逃避的な無神論者の「無」

一方で強靭な意志とは真逆な無神論者もいる。死が恐ろしいのは、死が無であるということだ。自分という存在が消えてなくなる「事実」。これを覆すには魂の存続、死後の世界の実在、それらを保証する神仏の存在…つまり死後の続き、死後の保証である。これらを満たすのが宗教であるわけだが、「無」であることが救いである人たちもいる。例えば自殺をした人、自殺願望のある人は、生まれ変わったら来世では幸せに…死んで天国に…といった発想もなくはないだろうが、多くは「消えてしまいたい」という思いではなかろうか。自殺願望者の多くは「無」になりたいのではないか。彼らにとって生きることは耐え難い苦痛である、死はすべての終わり、苦しみの終わりである。そんな人たちにとって、死んだその後にまだ続きがあるのでは救われない。

キリスト教ではこの世の人生は神より預かった身体をもって生きることであって、これを途中で放棄することは大きな罪になり地獄落ちとなる。キリスト教に限らず倫理的要請からも宗教が自殺を肯定するわけにはいかない。しかし何もかもから逃げ出したい、消えてなくなりたいと願う人たちにとって、死後に続きがあるばかりか、今以上の地獄が待っているとするなら、この世にもあの世にもどこにも逃げ場がないことになる。かくして彼らは無神論を抱いて無になろうとするのではないだろうか。これを「逃避的無神論」ということかできる。

しかし、無になるとはどういうことなのか。無とはなんなのか。無を考えることなどはできないのではないか。そもそも無は無いのだから、無を考えること自体が矛盾している。禅の高僧やハイデッガー(1889〜1976)、マイスター・エックハルト(1260〜1328)などは難解だが「無」を単なる観念で終わらせず徹底的に思索した。おそらく逃避的無神論者はそこまで「無」について思索してはいない。神は存在せず、死は完全な無であったとしても、「無」の正体がわからない以上、無になることが本当に救いになるかどうかもわからないのである。

■沈黙する神

切実な、実存的な無神論も存在する。震災や疫病、事件などの被害者らが抱く神への不信、不満である。

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