蟻の街のマリアと呼ばれた北原怜子(きたはらさとこ)の慢心と回心 (3/5ページ)

心に残る家族葬

彼らは怜子に全幅の信頼を置くようになった。

怜子の献身ぶりにマスコミも飛びつき、「蟻の街のマリア」として報じた。怜子の名は全国に知られるようになる。そして映画「蟻(あり)の街のマリア」(1958年・松竹)までが製作された。しかし怜子は結核に倒れ、松居らの勧めもあり、蟻の街を離れ静養することになった。

■そしてまた繰り返される慢心と回心

体調も回復し、蟻の街に復帰した怜子を待っていたのは、怜子がいなくても成長していく子供たち。そして怜子の代わりに働く女性の存在だった。その女性は蟻の街の住人と結婚するという。怜子は己の慢心を突きつけられた。「蟻の街のマリア」などともてはやされ、記事になり映画にもなった。いい気になっていた自分。蟻の街に飛び込んでバタヤになるくらいで、自分を捨てたと思いこんでいた自分。子供たちにとって自分はなくてはならない存在。それがいかにエゴに満ちた傲慢な自分であったか。例え意識しなくても「私こそが蟻の街のマリアなのだ」と自負していたであろう自分を、「神様がお叱りになってくださったのだ」。怜子は自分を大きく扱った新聞や雑誌記事のスクラップなどをすべて焼き捨てた。そして、蟻の街を去ろうと決めた。

この怜子の回心は四股切断の念仏者・中村久子(1897〜1968)のそれに似ている。久子もまた、世間に認められた成功者としての自らの傲慢に気づき、見世物小屋に戻った。怜子と久子には不思議な類似を感じる。

■蟻の街の独立と北原怜子の帰天

ほどなくして怜子は結核を再発、症状は悪化の一途を辿った。そして神より頂いた最後の命を使い切るように蟻の街に戻った。蟻の街は東京都との交渉の最中であった。都は「くず物取扱条例」を施行してバタヤや浮浪者排除に乗り出しており、蟻の街もその対象として処分されようとしていた。蟻の街は不法占拠でも何でもない。廃品回収業は立派な経済活動であり、後ろ指刺される筋合いのないコミュニティであった。ゼノ修道士は立ち退きを回避するために教会を建てた。松居らの交渉の末、深川の埋立地に移転が決定した。

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