密告と殺戮!奈良時代、それは血で血を洗う争乱が続いた時代だった。【前編】 (6/6ページ)

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(写真:T.TAKANO) 

藤原広嗣の乱後、藤原武智麻呂の次男仲麻呂が台頭してきます。そして、749(天平勝宝元)年、聖武天皇と光明皇后の娘である孝謙天皇が即位すると、その勢いは急激に伸び、新設された紫徴中台の長官に就任しました。

紫徴中台とは、若い孝謙を後見する光明皇后が大権を振るうために皇后宮識を改めた機関でした。仲麻呂は、その長官として光明皇后・孝謙天皇を後ろ盾にして権力を拡張していったのです。

仲麻呂は、専制体制を築くべく、先ずは橘諸兄を引退に追いこみます。さらに、聖武が皇太子に指名した道祖王(ふなどおう/天武の皇子・新田部親王の子)を素行不良として廃しました。

そして、新たに大炊王(天武皇子・舎人親王の子)を皇太子に立てます。大炊王は、仲麻呂の長男(早世)の未亡人を妻として、仲麻呂の屋敷に暮らしており、いわば身内であったのです。

こうした仲麻呂の動きに対して、諸兄の子である参議・橘奈良麻呂が757(天平勝宝)9年にクーデターを企てます。奈良麻呂は、ヤマト政権以来、武力で朝廷を支えた貴族である大伴氏・佐伯氏を中心に、仲麻呂に不満を持つ皇族たちとも図り、大炊王を廃して、別の皇族を奉じる計画を立てたのです。

この計画は、密告により仲麻呂の知れるところとなります。乱の首謀者・参加者たちは捕えられ、その多くは取り調べ中に行われた激しい拷問により獄死し、生き延びた者も多くが配流処分となりました。[橘奈良麻呂の乱]

クーデター未遂の翌年、孝謙天皇は譲位し、大炊王が淳仁天皇として即位します。仲麻呂は、恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、朝廷最上位の大師(太政大臣の唐名)に昇り詰めたのでした。

【後編】に続きます…

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