大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯 (2/8ページ)

Japaaan

忌み名)で普段は使わず、また元々は「あつただ」と読みました。

幼い頃から利発だった新五郎は17歳にして私塾「尾高塾」を開き、栄一をはじめ近所の子供たちを集めて学問を教えたと言いますから、若くして相当な学識を供えていたことが分かります。

栄一とは従兄弟の関係ですが、妹の千代(ちよ)を栄一に嫁がせたことで舅婿の関係でもあり、また弟の尾高平九郎(へいくろう。諱は昌忠)を栄一夫婦の養子としました。

新五郎は栄一の従兄であり、舅であると共に、栄一の養子である平九郎の兄ですから、栄一の甥とも言えなくもないわけで……家系図を書いたら、ちょっとややこしくなりそうですね。

横浜焼き討ち計画を発案するが……

さて、新五郎が34歳となった文久3年(1863年)、世の中に尊皇攘夷・討幕の機運が高まると、栄一たちと横浜にある外国人居留地の焼き討ちを計画します。

横浜焼き討ち計画(イメージ)。

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