大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯 (7/8ページ)

Japaaan

「養父上(栄一)……」

渋沢記念館蔵・渋沢平九郎の写真。

平九郎が遠く仰いだ空の向こう、栄一はそのころ、先進技術を日本に採り入れるべくフランス・パリ万国博覧会の視察をはじめ、ヨーロッパ諸国を歴訪していました。

大政奉還(たいせいほうかん。幕府が政権を朝廷に返還)によって帰国を命じられ、明治元年(1868年。慶応4年9月8日に慶応から改元)11月3日、かつて自分が焼き払おうとしていた横浜港に帰国します。

「そうか、平九郎が……」

亡くした養子を悼む暇もなく、栄一にはヨーロッパ諸国で学んだことを活かし、新たな日本を創り上げていく使命が待っているのでした。

エピローグ・明治日本の発展に尽力

新五郎と喜作はその後も北へ北へと転戦し、最後は箱館(現:北海道函館市)で旧幕府軍(蝦夷共和国、蝦夷政権)が全面降伏するまで抵抗を続けました。

「もはやこれまでか……」

日本の前途を絶望した二人でしたが、大蔵省の官僚となっていた栄一の伝手によって、今度は明治日本の発展に力を尽くすこととなります。

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