15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】 (6/7ページ)

Japaaan

【松平(大河内)正質 ~徹底恭順に徹し、貴族院議員を務める~】

 鳥羽・伏見の戦いにおける総督。東帰後はひたすら恭順に徹する。(写真:Wikipedia)

鳥羽・伏見の戦いでは、総督として旧幕府軍の指揮にあたった。慶喜大坂城退去時点では、まだ前線に滞在。しかし、副総督の塚原、陸軍奉行の竹中とともに、慶喜からは大坂城に残るよう命じられた。

これは、暗に旧幕府軍の責任者として、敗戦の責任を取り自尽するように慶喜が仕向けたとの説もある。だが、3人ともその意を介さず、あるいは従わずに江戸に戻っている。

江戸帰還後は、所領の大多喜に帰国、円照寺で謹慎した。さらに、維新政府に大多喜城を明け渡し、佐倉藩に預けられた。その後、まもなく所領を回復、官位も復位する。

旧幕府軍の総督でありながら、寛容な処置を受けたのは、速やかに城を開城したこと、旧幕府勢力からの勧誘に乗らずにひたすら恭順したことが評価されたとされる。

1869(明治2)年、大多喜藩知事に就任。1871(明治4)年からは、兵部省・宮内省などに出仕し、子爵に叙爵。その後、麹町区長、貴族院議員を務め、1901(明治34)年に没した。享年57歳。

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