15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】 (2/7ページ)

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大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その2】

恭順を良しとせず、維新政府と戦った人々 【松平容保 ~会津若松で1か月にわたる過酷な籠城戦を戦う~】

 甲冑姿の松平容保。(写真:Wikipedia)

旧幕府側の人物としては、誰よりも苦渋に満ちた人生を歩んだのが、松平容保といえるだろう。

江戸東帰後の容保は、慶喜に倣い恭順謹慎を行った。そして、維新政府に対し嘆願書を提出。仙台・米沢藩などの奥羽諸藩も、会津藩の許しを請う嘆願書を出したが、維新政府はことごとく無視した。

維新政府は、どうしても容保と会津藩を抹殺したかったのであろう。

これにより、藩内に渦巻いていた主戦派の怒りは頂点に達し、会津戦争が勃発。前後して、奥羽越列藩同盟の諸藩を巻き込んでの戊辰戦争に発展した。

容保と会津藩は、会津若松城で1か月以上にわたり、4万名近い維新政府軍の猛攻を凌いだが、力尽きて降伏した。

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