15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】 (5/7ページ)

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降伏の後、1870(明治3)年、開拓使に出仕した。1882(明治15)年没、享年48歳。

大坂城に残った人々のその後とは 【永井尚志 ~恭順派の代表であったが、函館戦争に参加~】

 慶喜の誘いを固辞し大坂城に残る。函館戦争で降伏した。(写真:Wikipedia)

慶喜側近の中でも、恭順論の代表的な立場にあった。しかし、大坂城退去の折、慶喜から供を命じられるものの固辞し大坂城に残った

その理由を浅野氏祐に次のように語ったという。

●松平正質の帰還を待ち、鳥羽・伏見の敗戦理由を明らかにすること。

●その上で、大坂城に残る幕閣一同で維新政府軍に抗戦し、全員が討死すること。

●そうすることで、鳥羽・伏見の戦いが慶喜の本意でないことを示す。

江戸帰還後は、恭順とは正反対に、榎本武揚と行動をともにし、函館政権では函館奉行を務めた。

函館戦争に突入すると、五稜郭守備の要衝・弁天台場を守備したが、函館政権の中では最初に降伏した。降伏後は、五稜郭に籠る榎本に、頻りに降伏を勧告したともいう。1872(明治5)年、赦されて維新政府に出仕。1891(明治24)年、76歳で没した。

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