仏教の総合大学と呼ぶに相応しい比叡山延暦寺を開いた天台宗の最澄 (3/4ページ)
そんな空海の才能に最澄は嫉妬するどころか、自分が不完全な形で輸入してしまった密教を学べると積極的に交流を求めたのである。最澄は弟子を空海の下に送り込み真言密教の修行をさせ、自分は密教経典を空海から借りて密教の知識に吸収しようとした。しかしその熱心さ、貪欲な学究心に空海は辟易してしまった。最澄の弟子・泰範(778〜?)が空海の正式弟子となり比叡山に戻らなくなってしまった問題もあり2人は絶縁してしまった。
■最澄の利他行と慈悲
空海が辟易したのもわからないではない。印を組み、真言を唱え「即身成仏」を目指す密教は知識より体験を重んじる。空海にしてみれば「いくら本を読んでも体験なくして密教がわかってたまるか。密教の経典は学者の知識欲を満たすためではない 」となり、最澄にもその旨の手紙を送りつけている。全くもって正論であるが、最澄がそれをわからないはずはない。だからこそ弟子を空海の下に送り込んだのだ。
そもそも最澄は自分が悟りを得るとか、仏教者として完成しようとは考えていなかったふしがある。最澄は自分の修行より体系作りに重きを置いていた。それはつまり後進のため、ゆくゆくは何十年何百年先の日本人のためである。決して宗教的天才とはいえない学者肌の最澄は、自分が悟ることに精一杯では体系は作れないと自覚していたのではないか。空海のような天才ではない最澄が選んだのは、後に続く世代が仏法を完成させる、つまり悟りを得るための体系を用意する道だったと思える。
悟るのは自分でなくてもよい。最澄がそう考えて体系構築を優先していたとしたら、まさに利他行である。大乗仏教の本道である慈悲の心の現れとはいえないか。志半ばで終わった最澄の意思は円仁(794〜864)、円珍(814〜891)らによって不足していた密教の要素が充実し、天台宗は仏教の総合大学となった。その後、比叡山は肥大化して僧侶の堕落を招いたが、その現状を憂いた偉才たちは山を降り、これまで学んだ天台の総合的知識の中から、念仏や禅などを選択して洗練し、鎌倉仏教を創始していった。最澄の蒔いた種は大輪の花を咲かせたのである。最澄の真髄はそこにあるといってよい。
地味な学僧・最澄はどうしても天才・空海と比較され、空海のかませにされがちである。