豊臣は滅んでいなかった?秀頼の死後も豊臣の姓を受け継いだ木下利次のエピソード (2/4ページ)

Japaaan

豊臣氏の存続を訴えた高台院。Wikipediaより。

「かつて卑賎の身から天下人にまで立身出世を果たした(亡き)秀吉が、畏れ多くも朝廷より賜った豊臣の姓を、たった二代で絶やしてしまうのはあまりにも不敬ではないでしょうか」

この言い分にも一理ある……徳川家としても、かつては主君として仕えたこともある豊臣家を完全に根絶やしにしてしまうのは気が引けたのか、また高台院に一目置いていたこともあってか、高台院と利次の養子縁組を承認しました。

これにより、利次は羽柴(はしば)の名字を称して羽柴利次となるのですが、中には「豊臣家の養子になったのに、なぜ羽柴と名乗るの?」と疑問に思われる方もいるでしょう。

豊臣とは朝廷から賜った姓(せい)で、家を現す名字(みょうじ。苗字)とは異なります。

例の秀吉や秀頼にしても、豊臣という姓は主に公式の場でのみ名乗り、普段は羽柴という名字を使っていました(現代では姓と名字はほぼ同じに扱われていることと、立身出世に合わせて呼び名が変わっていく痛快感から、豊臣秀吉という呼びが一般化したのでしょう)。

羽柴の名字と領地を奪われるも……

かくして大叔母・高台院の養子となった羽柴利次ですが、寛永元年(1624年)に高台院が亡くなると、徳川幕府は「もう遠慮などしてやらぬ」とばかり羽柴の名字を使用禁止とし、相続した高台院の化粧領(※)1万5千石を3千石に減封

(※)けしょうりょう。

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