戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】 (4/4ページ)

Japaaan

(写真:T.TAKANO)

石田家重臣であり、戦国武将としても名の知れ渡った島左近は、東軍からすればいうまでもなくお尋ね者でした。はたしてそんな左近が東軍の追っ手をかわし、京都で生き永らえることができたのでしょうか。

しかしながら、関ケ原の後、宇喜多秀家、増田長盛、織田秀信などの有力な西軍大名たちが死罪を逃れ蟄居を命じられていることを踏まえて考えると、石田三成の陪臣であった左近にはさほどの追求は及ばなかったとも考えられます。

また、その潜伏先として江戸時代初期、日本で最大の人口を有していた京都(1600年の人口:京都約30万人・大坂約28万人・江戸約6万人)を選んだことで、かえって身を隠すのに好都合であったのではないでしょうか。

立本寺にある島左近の墓が本物であるかどうかは、正直分かりません。でも、稀代の勇将・島左近が生き延びて、この地で天寿を全うしたと伝わること、その墓を現代の我々がこうして拝することができるというのは、文字通りの歴史ロマンなのではないでしょうか。

墓石に刻まれた戒名。いまも全国から子孫の方がお参りに訪れるという。(写真:T.TAKANO)

この記事をお読みの皆さんも、京都に行かれたら是非とも西陣に足を運び、立本寺の島左近の墓に参詣し、隠れた歴史を肌で感じていただければ思います。

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