大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一がパリで出会う栗本鋤雲(くりもとじょうん)って何者? (2/5ページ)

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医師としてキャリアを積む瀬兵衛(イメージ)。

順調に医学を修め続けた瀬兵衛は嘉永元年(1848年)、27歳を迎えて幕府の奥医師を務める栗本家の養子に入り、将軍はじめその家族の診察に当たります。

ここまでは順風満帆と言える瀬兵衛の人生ですが、安政5年(1858年)に蝦夷地・箱館(現:北海道函館市)へと左遷されてしまったのです。

瀬兵衛が左遷された理由には諸説あり、医師としてあるまじき禁忌を犯したとも、トントン拍子の出世を妬んだ先輩・同僚らの讒言(ざんげん。他人を陥れるための密告)とも言われています。

前向きな姿勢で、華麗にカムバックを果たす

しかし、そんなことで挫折してしまう性格ではなかったようで、瀬兵衛は左遷先の箱館を新天地と前向きにとらえることにしたのでした。

例えば、遊郭で蔓延していた梅毒を駆除するための医学所を設立したり、薬の原料を調達するため薬草園を経営したりと言った医者らしいことだけではなく、肉牛の畜産や養蚕事業も指導し、地域の発展に大きく貢献します。

そんな活躍が認められて文久2年(1862年)、瀬兵衛は41歳にして医籍(医者の身分)から武士に取り立てられ、箱館奉行組頭として樺太(からふと)や南千島(現:北方領土)の探検調査を命じられました。

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