大河ドラマ「青天を衝け」渋沢栄一がパリで出会う栗本鋤雲(くりもとじょうん)って何者? (3/5ページ)
1年ばかりの北方探検から戻った文久3年(1863年)、瀬兵衛に辞令が下って江戸に返り咲き、かつて学んだ昌平坂学問所の頭取を経て目付に登用。
目付とは老中の政策をも左右できる重職中の重職であり、瀬兵衛も「その人を得ると得ざるとは一世の盛衰に関する(著書『出鱈目草紙』より)」と振り返るほどでした。
さらには日本の近代化に不可欠な製鉄技術開発の責任者である製鉄所御用掛を経て外交を担当する外国奉行となり、幕府の財政を統括する勘定奉行と箱館奉行まで兼任したと言いますから、目の回るような激務だったことでしょう。
そんな働きが認められ、45歳となった慶応2年(1866年)、瀬兵衛は朝廷から従五位下・安芸守に叙任されたのでした。
幕府の命運を賭け、パリ万博へ「パリ、でございますか」
「そうじゃ。よく水戸公を補佐せよ」
「ははあ……」
慶応3年(1867年)1月、瀬兵衛は将軍・慶喜の弟で水戸藩主の徳川昭武(あきたけ)に随行してフランスへ渡りました。