弘兼憲史×池上彰「オトナの人生相談」(1)実はご近所同士で顔見知りだった (2/3ページ)

Asagei Biz

─お二人とも東京・練馬区に住んでいらっしゃったとは。

弘兼 池上さんは長野の松本出身でしたね。いつ東京に出てこられたんですか。

池上 銀行員だった父の転勤で、3歳で東京の吉祥寺に移り住んで、5歳の時に父親が、練馬区が分譲した戸建てを買いました。あの頃の練馬の地価は安かったですから。周りは大根畑でした。

弘兼 練馬大根ですね。僕は早稲田大学に入学するために、山口から上京した後、就職して大阪へ。漫画家になって東京の板橋区に引っ越し、その後、練馬区に移りました。

池上 弘兼さんのお宅とは子供の小学校を挟んで反対側でしたが、散歩の途中に何度かご自宅の前を通りかかったこともあるんですよ。

弘兼 そうなんですか。あの頃は子供が小さかったのですが、とにかく仕事が忙しかった時期です。子供たちのことはほとんどかまってやれなくて、子育てはカミさんに任せきりでした。

池上 私もNHKの社会部記者時代は夜討ち朝駆けが当たり前。晩御飯を家族と食べたことがありませんでした。父親としては失格でしょうね。

弘兼 そもそも我々が、定時に帰宅できない仕事を選んだので、ある意味、仕方がないことですね。池上さんがNHKに入社しようと思ったきっかけは?

池上 小学校6年の時、立ち寄った近所の書店で、たまたま手に取った「続・地方記者」(朝日新聞社刊)を読んで、新聞記者になりたいと思いました。それまでも新聞を毎日のように隅から隅まで読んでいましたから。最終的にテレビ局を選んだのは、連合赤軍の「あさま山荘事件」がきっかけです。大学3年生の時、この事件を毎日朝から中継していて、みんな、テレビ画面に釘付けになっている。恐らく、NHKと民放両方の視聴率を足すと90%くらいあったはずです。それを見て、これからはテレビの時代が来るはずだ、と思ったんです。

弘兼 「あさま山荘事件」、よく覚えています。僕も、仕事そっちのけで見ていました。実は、僕も子供の頃、新聞記者になりたいと思ったんです。ちょうどNHKで「事件記者」というドラマ(1955〜1966年放送)をやっていて、ああ、これだと思い、新聞記者を目指して早稲田大学に入ったんです。

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