戦国武将の「老後と終活」を暴く〈あぁ、憐れ…〉真田昌幸は金の無心で怒濤の手紙攻撃 (1/3ページ)
関ヶ原の戦いで、東西どちらの側に加勢したかで、武将たちの運命は大きく変わった。追放になった武将たちの老後はいかに。
真田信之と信繁(幸村)の父親の真田昌幸は、関ヶ原の後、高野山の九度山(くどやま)へ追放される。小栗さくら氏は、戦国武将の中でもこの真田昌幸に魅力を感じている。
「昌幸は、上田合戦では2度にわたって徳川軍を退けた名将です。関ヶ原の戦いでは、次男・信繁を西軍に、嫡男の信之を東軍につかせて、どっちが勝っても真田家を残せるようにしましたが、関ヶ原の西軍側として、信繁と一緒に紀州の九度山に配流になってしまいます。九度山での暮らしは、与えられた屋敷の一定の範囲内なら自由に動けて、狩りや釣りもできたのんびりとしたものでしたが、お金がなかった。上田に残った長男の信之らには、たびたび金子(きんす)を送ってほしいという手紙を出しています」
怒濤の手紙攻撃については河合敦氏も続けて、
「信之からの仕送りは、そんなに多くはなくて、家計はずっと苦しかったようです。息子の信之に『40両送れと言ったのにまだ20両しか届いてないぞー』、さらに『20両が無理ならせめて5両でもいいから』といった手紙を再三出しています。九度山に流されて、11年の配流生活の後、ついに65歳で亡くなった時のこと。息子の信之は家康の側近に、弔いをどうすればいいかと尋ねますが、『貴殿のお父上ははばかりがある人ゆえ』と言われ、葬儀の記録もなく、幕府に忖度した寂しい死に様でした」
関ヶ原で負けて、逃亡生活の果てに八丈島への流刑者第1号となったのが豊臣五大老の宇喜多秀家。南の島でのんびりと……と思いきや、どうもそうではなかったようだ。