育て方を間違えた?北条政子が激怒した源頼家「愛妾略奪事件」【鎌倉殿の13人】 (2/4ページ)
逆ギレで兵を起こす頼家、決死の覚悟で止める政子
時は正治元年(1199年)7月、頼家は御家人の安達景盛(あだち かげもり)に命じて、三河国(現:愛知県東部)の賊徒討伐へ派遣しました。
「しめしめ、これで邪魔者はいなくなったわい」
景盛には美人と評判の愛妾(≒お気にいりのめかけ)がおり、不在の隙を狙った頼家は、特権を与えた側近たちに命じてこれを拉致させたのです。
「嫌ぁ……っ!」
「ゲヘヘ、鎌倉殿のお召しぞ。大人しうせぃ」
世に自分の妻を奪われて怒らない夫はいないもので、8月18日に任務から帰投した景盛はこれを激怒。頼家はこれを「謀叛の企み」として8月19日、側近たちに景盛討伐を命じます。
完全に逆ギレですが、鎌倉殿の命令とあれば逆らう訳にもいかず、にわかに鎌倉じゅうが一触即発の臨戦状態に陥りました。
「……我が子ながら、育て方を間違えてしまったのでしょうか……」
ここで政子が登場。二階堂行光(にかいどう ゆきみつ。二階堂行政の子)を使者に、以下の通り叱責しました。
「御殿(頼朝公)に続いて乙姫(おとひめ。