育て方を間違えた?北条政子が激怒した源頼家「愛妾略奪事件」【鎌倉殿の13人】 (3/4ページ)

Japaaan

頼朝公の次女・三幡)も亡くなり、その喪も明けていないというのに、大義なき戦さで世を乱そうとは何をお考えか。安達殿は人望に篤く、亡き御殿も目をかけたほどの者。軽々に謀叛を起こすはずもなく、それをロクに調べもせず、都合が悪いからと誅戮(ちゅうりく。罰し殺すこと)すれば、必ず後悔することになりましょう(意訳)」

【原文】幕下薨御之後。不歴幾程。姫君又早世。悲歎非一之處。今被好鬪戰。是乱世之源也。就中景盛有其寄。先人殊令憐愍給。令聞罪科給者。我早可尋成敗。不事問。被加誅戮者。定令招後悔給歟。

「……それでもなお不義の戦を起こされるのであれば、この母が真っ先にあなたの矢に当たりましょう!(意訳)」

【原文】若猶可被追罸者。我先可中其箭云々。

我が子の教育を誤った責任を、母である私が死をもって負いましょう……そんな政子の鬼気迫る叱責を前に、流石の頼家も抗えず、渋々兵を引いて鎌倉は事なきを得たのでした。

終わりに

こうして終息した頼家の愛称略奪・安達景盛討伐未遂事件でしたが、その真意は権威の世代交代・権力の奪還だったと考えられます。

景盛は「鎌倉殿の13人」の一人・安達盛長(もりなが。小野田盛長)の子であり、それを屈服させることで宿老たちを黙らせたかったのであり、愛妾云々は(好色的な理由と合わせて)喧嘩を売るキッカケだったのでしょう。

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