育て方を間違えた?北条政子が激怒した源頼家「愛妾略奪事件」【鎌倉殿の13人】 (4/4ページ)

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頼朝公の流人時代から奉公してきた忠臣・安達盛長。『集古十種』より

恐らく本気で景盛を討つつもりではなく、自分に「恐れ入りました」と頭を下げさせ、それを寛大に許してやる、という形で手打ちにしたかったのではないでしょうか(妻を奪われた側が謝らされると言うのは、非常に理不尽な話ですが)。

実際、頼家は合議制によって停止されたはずの訴訟採決権を行使しており、この一件で御家人たちも「まぁ、大勢に支障がなければ、権力を振るわせて(満足させて)やろうか」と妥協したようです。

しかし、頼家にとっては得たものよりも失ったものの方が大きく、それがやがて破滅につながり、御家人たちの権力抗争は本格的に激化していくことになるのでした。

※参考文献:

石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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