「鎌倉殿の13人」尼将軍・北条政子の墓を伝える鎌倉の名刹。壽福寺と安養院【後編】 (2/6ページ)

Japaaan

その後、尼将軍として幕府政治を支え続けた。(写真:Wikipedia)

北条政子が出家した理由は、頼朝の死がきっかけです。当時、身分の高い女性は、夫が亡くなれば出家して尼になり、その菩提を弔うのは当たり前のことでした。

しかし、政子の人生には、常に親しい親族の死がつきまといます。政子が生きた時代が、治承・寿永の乱(源平の争乱)という乱世であっても、それは尋常なことではありませんでした。

特に、自分がお腹を痛めた2人の男子、2代将軍頼家、3代将軍実朝が、いずれも殺害されるというのは、将軍の御台所の地位にいた女性にとっては異常なことであったのです。

しかも、頼家に関しては、実家の北条氏の勢力を守るために、政子が出家を命じた上に伊豆修善寺に幽閉しています。その後、頼家は政子の父時政により暗殺されてしまいます。政子自ら手を下したわけではありませんが、その死のきっかけを作ったのは、政子本人であったのです。そして、実朝も頼家の遺児公暁に暗殺され、頼朝と政子の血筋は絶えてしました。

 鎌倉幕府2代将軍源頼家。妻の実家比企氏を盛り立て、北条氏を退けようと画策。政子により修善寺へ幽閉された。

「「鎌倉殿の13人」尼将軍・北条政子の墓を伝える鎌倉の名刹。壽福寺と安養院【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、安養院壽福寺鎌倉殿の13人北条政子鎌倉カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る