生まれよりも生き方が大事…兄からの冷遇に耐えて活躍した平安貴族・藤原良仁の生涯 (2/6ページ)
法金剛院蔵
そのせいか政界デビューは少し遅めの25歳となった承和10年(843年)、良仁は春宮蔵人(とうぐうのくろうど)として道康親王(みちやすしんのう。後の第55代・文徳天皇)に仕えます。
春宮とは皇太子殿下とその御所を指し、蔵人とはその身辺をお世話する役職で、貴族の子弟たちが出世コースの第一歩として勤めました。
熱心な働きぶりが評価されたのか、その後は主蔵正(しゅぞうのかみ。春宮の倉庫管理責任者)や春宮大進(とうぐうのだいじょう。家政指導役)などを歴任。
承和13年(846年)には従五位下に叙爵され、28歳の若さで内裏への昇殿≒天皇陛下への拝謁が許される殿上人(てんじょうびと)となったのでした。
貴族の官位には正一位から少初位下まで幅広く、形式上こそ貴族ではあるものの、まともに貴族として扱ってもらえるのは五位以上から。
五位は上から正五位上・正五位下・従五位上・従五位下の4ランクに分かれており、良仁は晴れて「貴族」として認められることになります。
兄たちに比べれば遅いし、たとえバカにされたって、自分の努力によって勝ち取った実績。さぞや嬉しかったことでしょう。
文徳天皇の後ろ盾で、順調に出世かくして「貴族」の仲間入りを果たしたこの頃、良仁は北家一族の藤原浜主女(はまぬしのむすめ)と結婚。承和14年(847年)には嫡男の藤原有実(ありさね)が誕生しました。
ほか生母&生年不明の藤原恒実(つねさね)や藤原義実(よしさね)もいますが、分け隔てなく愛してあげたのでしょうか。