生まれよりも生き方が大事…兄からの冷遇に耐えて活躍した平安貴族・藤原良仁の生涯 (4/6ページ)

Japaaan

後の第56台・清和天皇)をゴリ押しします。

惟喬親王。菊池容斎『前賢故実』より

何とか陛下のご希望にそえるようにしたい……良仁は惟喬親王を推すべく働きかけますが、良房は異母弟の願いを一蹴。

それならせめて惟喬親王を惟仁親王の皇太子≒次期皇位継承者に……文徳天皇はそう願いましたが、それでは却って愛する惟喬親王の身を危うくしてしまうでしょう。

結局、皇位は惟仁親王が継ぐことと決定。太政大臣の意向に逆らった良仁は天安元年(857年)、越前権守(えちぜんごんのかみ)として左遷されてしまったのでした。

権守とは正式な国司(越前守)に対して仮≒員数外の国司で、現地に行ってもやることはあまりありません。要するに実質的な追放処分と言えます。

(※名誉職として授けられる場合もありますが、ここでは状況的に左遷≒追放処分と解釈)

京から遠く越前(現:福井県)で陛下の身を案ずる中、天安2年(858年)に文徳天皇が崩御。あまりに急だったため、良房らが暗殺したとも噂されました。

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