生まれよりも生き方が大事…兄からの冷遇に耐えて活躍した平安貴族・藤原良仁の生涯 (5/6ページ)
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「そろそろ、あやつも反省したじゃろう」良仁を都に戻した藤原良房。菊池容斎『前賢故実』
もう十分に反省したと思ったのか、藤原家当局は良仁を赦して兵部大輔(ひょうぶのだいゆう。軍事長官)の官職を与え、中央政界に復帰させます。
しかし文徳天皇の葬儀や陵墓造営などは任せられず、生前篤く忠義を尽くしていた良仁には辛い仕打ちだったことでしょう。
エピローグその後、良仁は中宮大夫(ちゅうぐうのたいふ)を拝命して国母(天皇陛下の母・皇太后)となった藤原明子に仕えます。
しかし母が亡くなり、それを嘆き悲しむあまり血を吐いて昏倒。それ以来、病床に臥せって貞観2年(860年)に卒去。まだ42歳の若さでした。
人々はこれを「母親に対する孝心ゆえ」と賞賛しましたが、母親としてみればそこまで悲しまず、長生きして欲しかったことでしょう。
ちなみに父・藤原冬嗣は良仁がまだ8歳だった天長3年(826年)に薨去しており、父がもう少し生きていれば、母子の境遇も少しはマシだったかも知れません。