生まれよりも生き方が大事…兄からの冷遇に耐えて活躍した平安貴族・藤原良仁の生涯 (3/6ページ)
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ますます職務に励んだ良仁は嘉祥2年(849年)に従五位上へ敍爵、春宮の次官である春宮亮(とうぐうのすけ)に昇進。
そして嘉祥3年(850年)、道康親王が皇位を継承されると二階級特進で正五位上に叙爵されました。
また皇太后(天皇陛下の母)となった藤原順子(のぶこ/じゅんし。良仁の異母長姉)に仕える中宮亮(ちゅうぐうのすけ)とその護衛を務める右兵衛権佐(うひょうゑごんのすけ)を兼任します。
仁寿4年(854年)には従四位下へ昇進、その時期に蔵人頭(くろうどのかみ)、右近衛中将(うこのゑのちゅうじょう)はじめ右馬頭(うまのかみ)、木工頭(もくのかみ)、大舎人頭(おおどねりのかみ)、左京大夫(さきょうのたいふ)など要職を歴任。
この頃が良仁にとって人生の絶頂でしたが、やがてその前途に暗雲が立ち込めます。
兄に逆らった報いで左遷文徳天皇は若い頃より病弱で、早くから皇位継承者選びが問題となっていました。
文徳天皇は第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を後継者に望んでいましたが、太政大臣の藤原良房(よしふさ。良仁の異母兄)は自分の娘・藤原明子(あきらけいこ/めいし)が産んだ第四皇子・惟仁親王(これひとしんのう。