浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【前編】 (6/7ページ)
巨万の富を得ても強欲ではなかった銭屋五兵衛
しかし銭屋五兵衛は商売の才能はあっても強欲な人物ではありませんでした。隠居して長男の喜太郎に家督を譲った後も、サツマイモの栽培を広めたり、町奉行に米や銀を寄付するなど困っている人達を助けようと努力しました。
また自身の隠居所を建て替えし、多くの職人や大工を雇うことで失業対策をするなど、結局は隠居といいながら仕事を続けるような人でした。
そして五兵衛は「亀巣」と号して茶の湯や俳諧を嗜む文化人でもありました。長男の喜太郎(千賀の父親)は“霞堤”、次男、三男も俳号を持ち、孫の千賀(ちか子)も共に俳句を詠むことを楽しんでいました。中でも千賀は一番俳句の素養を持つと言われていたのです。
銭屋五兵衛の海外貿易説![長崎港と出島](https://image.dailynewsonline.jp/media/d/f/df86eaf8ab78477cbbb940f2dc1ffd67ca41bfc2_w=666_hs=d340c5e6c17dc1825b00578c4e7422f8.jpeg)
江戸時代の鎖国体制下、銭屋五兵衛は異国との交易も行ってたという説があります。
五兵衛は蝦夷地を通してロシアと、そして自ら赴いて香港、中国そしてアメリカとも貿易を行っていたと言われています。オーストラリアのタスマニア島には現在は紛失しているものの“五兵衛の土地と記した石碑”があったと言い伝えがあります。