今も昔も人は神道・仏教を区別せず、願いや救いを求め続けてきた (2/5ページ)

心に残る家族葬

そしてその神社のそばや境内に、神社や神を仏法で護り、なおかつ「神も仏も一体である」という考えに則って、「神宮寺」も建てられた。

■神仏習合の最も有名な事例

このような神仏習合の最も有名な事例のひとつに、聖武天皇(在位724〜749)の、八幡神への強い信頼または信仰心が挙げられる。天平15(743)年、天皇は仏教による鎮護国家の願いを込めて、奈良の大仏造立の詔を発した。その上で詔の4年後に、豊前国宇佐(現・大分県宇佐市)の八幡神に大仏鋳造成就の祈願を行った。更に当時は、大仏に用いられる黄金が不足していたのだが、八幡神が託宣の中で、「われ天神地祇を率い、必ず成し奉らん。銅の湯を水とし、我が身を草木土に交えて障ることなくなさん」と、大仏の完成を約したという。そして晴れて大仏鋳造が完了した天平勝宝元(749)年11月に、八幡神は都に向かうと託宣を発し、その1ヶ月後に壮麗な神輿に乗って、宇佐八幡社の禰宜杜女(ねぎもりめ)らと共に上京した。それに当たり朝廷側は「迎神使」2人を選び、経路の諸国には兵士100人以上を派遣し、警護に当たらせた。更に神輿が入京した折には、官人50人に出迎えさせた。そして八幡神のために新たに神殿が造営されたばかりでなく、僧侶40人に7日間の悔過(けか。自らの罪を懺悔し、その報いを逃れることを求める儀式)を行わせたりしたという。

■外来文化の流入減とともに神仏習合が進んだ

寛平6(894)年、菅原道真(845〜903)の遣唐使廃止の提言から、いわゆる外来文化が日本国内に流入しなかった平安時代中期以降になると、和歌や文学、絵画や建築などにおいて、日本独自の文化が興隆した。それによって一層、支配層のみならず、一般の人々の間にも神仏習合が進んだ。

■仏教の発展

その後、貴族から武士の支配が行われるようになった鎌倉時代に入り、新しい仏教宗派、浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・曹洞宗・臨済宗と6つも開かれた。禅宗において、道元(1200〜1253)による曹洞宗では、開基当初は「純粋禅」を唱え、厳重な出家主義を貫いた。それゆえ、中央権力への接近を避け、空海(774〜835)の真言宗や最澄(766または767〜822)の天台宗に見られる、密教的加持祈祷も排していた。

「今も昔も人は神道・仏教を区別せず、願いや救いを求め続けてきた」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る