今も昔も人は神道・仏教を区別せず、願いや救いを求め続けてきた (4/5ページ)

心に残る家族葬

また「おひらい様」は子どもが大好きだという言い伝えから、かつては夏になると、近在の子どもたちが神像を持ち出して川に投げ込み、浮き袋がわりにして遊んでいた。また、少彦名神は手足が不自由であるため、手足の痛み快癒のご利益がある。もしも痛みが引いた際は、木で作った手形足形を奉納していたという。

このような社伝は、日本全国の神社において、特に珍しいものではないのかもしれない。しかし飛来神社には、本殿の前に、頭部の形状が微妙に異なるものの、お地蔵様によく似た像が2体祀られている。これらの像に関し、具体的なことはわからない。子どもが遊んでいた神像なのか。赤いよだれ掛けから「お地蔵様」に見えるものの、実は祭神の大己貴命と少彦名命を象った神像なのか。医師の森直郷が昭和9(1934)年、『九州日報』のコラム「信心と伝説」の中で取り上げていたところによると、子どもの歩みが遅かったり、病があったりした際は、この2体の「石神」と「石仏」につけられている「胸かけ」(よだれかけ)をいただいて、子どもにかけてやる。快癒したら、新しいもの2枚と、七色の菓子を、お礼参りの折にお供えするという。しかも「おひらい様」のご利益が広く知れ渡っていたことから、当時では、遠くは中国の大連、そして鹿児島あたりからの参拝者もいたという。とはいえ、飛来神社に祀られた「神像」の形状や持物(じぶつ)が、仏教における「お地蔵様」に見えるように形づくられていることこそが、先に述べてきた、日本古来の神仏習合の一事例なのかもしれない。

■最後に…

大政奉還後の慶応4(1868)年の神仏分離令など、明治時代初期の廃仏毀釈によって、今日では、仏教、神道と、「区切る」、または「分離している」のが「当たり前」になってしまっている。しかし、過去においても今日においても、人を救う、願いを叶える、亡くなった「いのち」を悼む…などにおいては、「仏教」「神道」と区切ることなく、「神仏習合」も時として「あり」ではないか。宗教の違いによって、時として大規模な迫害や内乱・騒擾が起こることは決して珍しいことではないのだが、「違い」そのものや、「正統」と「異端」などと峻別することによって、民衆の素朴な信仰・信心の心までもが「分断」「排斥」されてしまうのは、とても悲しいことだ。

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