念仏者であった慧遠や空也、法然などの死を超えた反逆の系譜 (1/3ページ)

心に残る家族葬

念仏者であった慧遠や空也、法然などの死を超えた反逆の系譜

念仏者はこの世の価値を超え死の恐怖を超える。権力は民衆の生殺与奪の権利を持ち、絶対的な権威は精神を支配する。時に命すら脅かす権威・権力の暴力に民は逆らえない。しかし極楽往生に真の価値を見出した念仏者には通じない。念仏者の歴史は死に抗い、強大な力に抗った歴史でもある。

■慧遠 中国浄土の祖

中国・東普の時代(317〜420)仏教は国家に公認、庇護され栄えたが、国家の権威に従属し、自らも国の特権階級であると増長し、本来の一切平等の教えを忘れ堕落した僧が増えていた。そうした現状を憂いた中国浄土教の始祖・慧遠(334〜416)は、聖山として名高い廬山に籠もり念仏結社「白蓮社」を結成。さらに「沙門不敬王者論」を著し沙門(出家した僧侶)は国家の支配を受けるべきではないと説いた。仏法に帰依する僧侶は俗世の法に従うことはできない。俗世に君臨する皇帝や貴族に畏敬の念を以て頭を下げる「礼敬」は必要ないと宣言したのである。一方で慧遠は天下を伺う軍閥・桓玄(369〜404)が発した沙門追放令について、堕落した僧侶たちを国が処罰することは認めている。慧遠の思想に賛同する気骨のある僧侶は、王侯貴族を前にしても頭を下げず弾圧の対象になったこともあったという。そして慧遠も「僧侶も王に敬服すべし」という桓玄との礼教論争に一歩も引かなかった。

■空也 日本浄土の祖

日本浄土教の祖といえる空也(903〜972)。半開きの口から6体の物体が飛び出している、六波羅蜜寺の空也上人像は誰もが見たことがあるはずだ。彼が南無阿弥陀仏と唱えると口から小さな仏が飛び出したという伝説が元になっている。空也は仏教が貴族のものだった平安の世において、彼は市井の民に念仏を説き救いを説いた。日本の仏教は国家のものであり僧侶は国家公務員だった。初期仏教における民からの布施で生活する乞食(こつじき)を実践する僧は少なかった。ブッダが見ればさぞ驚いただろう。
空也は貴族仏教の総本山、比叡山の誘いに応じ受戒し、光勝なる戒名を授かったことがある。結局権威に阿ったのかと見えるがそうではない。空也は比叡山、並びに貴族の庇護を確約したのち、さっさと山を下りてしまった。その後も戒名は使わず生涯「空也」のままで通したという。

「念仏者であった慧遠や空也、法然などの死を超えた反逆の系譜」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る