記号化され隠される死 観念としてではなくリアルな死に思いを馳せる (1/3ページ)
私たちの日常は「死」のほとんどを数値や記号でしか知ることはない。そのひとつひとつに存在したはずの人生。「死」は隠され遠ざけられ、その人生は数値化記号化されてリアリティを失う。
■遠ざかった死
社会学者ノルベルト・エリアス(1897〜1990)は、少なくとも中世までは自ら獲物を獲り肉を捌いていたが、「文明化」が進み専門の料理人に委ねられ、肉から「死」は隠蔽されたと指摘した。私たちはステーキを食べるときに屠殺された死体に他ならないことを意識しない。目の前にあるのは長方形の食べ物である。牛の死、それはもちろん熟知している。しかしそれはあくまで知識でしかなく、目の前のステーキに「死」を見出すことはない。それは「死」そのものであるにも関わらず。
■文明化とともに死は隠蔽・隔離されている
そのような現代社会において「死」はリアリティを失っている。病院では治癒した者は表玄関から堂々と退院し、死者は裏口からそっと見送られる。当然の配慮である。患者にとって病院は病気を治す場所であり死ぬ場所ではないからだ。病院において死は隠蔽・隔離されている。
特に日本で顕著であるようだが、テレビの報道などで流れる事件事故の映像に遺体は映らない。リアルな死は徹底的に隠される。対して動画サイトなどではリアルな映像が流れる事があり、コメント欄は賛否両論である。マスメディアの報道映像だけでは自然の脅威は伝わっても死者のリアルに接することはできない。だが一方で遺族感情や死者を晒し者にするという面も確かにある。NHKの放送ガイドラインには「事件や事故、災害などでは死者の尊厳や遺族の心情を傷つける遺体の映像は、原則として使用しない」とある。簡単には答えの出ない問題だが、文明が「死」が隠すという事実は認識しておきたい。
■記号化される死
コロナ禍の現在は、連日新型コロナの新規感染者の数が公表されるが、死者が1人などだと収束に向かっているとほっとする。しかしその1人は死んでいるのである。彼、彼女にも生のドラマがあったはずだ。生まれた時は祝福され、笑い、泣き、怒り、悩み、喜ぶ。そんな人生というドラマに同じストーリーはない。それを私たちは「1人」で済ませてしまう。