天保水滸伝に登場する笹川繁蔵こと岩瀬繁蔵の不慮な死と死後の偶然 (2/8ページ)

心に残る家族葬

歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥(かわたけもくあみ、1816〜1893)が『群清滝贔屓勢力(むれきよたきひいきのせいりき)』(1867年)と題し、3幕の劇にした。明治以降は講談や浪曲、子母沢寛(しもざわかん、1892〜1968)の『遊侠奇談』(1930年)などの大衆文学、昭和初期に大ブームとなった浪曲師、2代目玉川勝太郎(1896〜1969)、更に芝居や映画はもちろんのこと、田端義雄の『大利根月夜』(1939年)、三波春夫の『大利根無情』(1959年)なども大ヒットした。また平成26(2014)年には、氷川きよしがデビュー15周年記念に『大利根ながれ月』をリリースしている。

■天保水滸伝が人気の理由

「侠客同士の争い」が何故、多くの人々の心を掴んだのか。それは、江戸時代は社会・経済・政治全てにおける支配/被支配関係が峻厳だった。戦国時代のような「下剋上」は到底叶わない。被支配者層は支配者層に対する不満や怒りがあったとしても、それを行動に移し、世直しを企図することは自身の破滅でしかなかった。しかし、「無宿」「悪党」「極道」などと、「一般の人々」とは埒外の世界に身を置く彼らだったからこそ、「掟」よりも義理人情を重んじ、「弱気を助け、強気を挫く」ため、身を挺して、絶対的権力を有する「お上」に対し、果敢に戦いを挑む存在であると、「英雄」視されたことにある。しかも当時は、江戸幕府が有してきた上記の「権力」そのものが揺らぎ、後の明治維新(1867年)を惹起させるほど、社会そのものが不安定かつ、爆発寸前の不平不満が渦巻いていた。そうした社会状況だったからこそ、既成の常識や価値観を打ち壊し、新たな世界を生み出す超絶的な存在として、有名な侠客たちが、実像よりも美化された点は否めない。

■天保水滸伝の舞台となった当時の利根川流域の様子

当時の利根川流域は、漁業基地・銚子と江戸市中をつなぐ川舟水運で大いに栄えていた。年貢米や近在の農村で採れた農作物、銚子の魚介類、地場の酒・醤油、木綿織物などを江戸に輸送する。帰りは関西からの塩、古着や瀬戸ものなどの生活物資を運んでくるのだ。それに伴い、大きなお金が動く。そのような繁華な「場所」には、いろいろな思いを抱いた多くの人々が集まってくる。

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