天保水滸伝に登場する笹川繁蔵こと岩瀬繁蔵の不慮な死と死後の偶然 (4/8ページ)
時を経る中で、話を盛り上げるための演出や脚色が加えられてきたとはいえ、登場人物ひとりひとりの個性、一連の揉めごとそのものは、おおむね史実に基づいているという。
その『天保水滸伝』における「大利根河原の決闘」だが、天保15(1844)年8月6日、近接する縄張りゆえに常々諍いが頻発していた繁蔵一味の捕縛のために、助五郎勢は20名ほどの子分を率いて殴り込みをかけた。しかし繁蔵側の抵抗が激しく、助五郎側が敗れてしまう。そして繁蔵とその子分・勢力富五郎(せいりきとみごろう、1813〜1849)こと勢力佐助を、近在の村人たちを総動員した大掛かりな山狩りをしたものの、あっけなく取り逃がしてしまったというのが、当時の公的史料の初出である。10日には2人の人相手配書が回されたが、それによると繁蔵は、以下の通りだった。
一、年齢三十五、六歳位
一、丈高く中肉
一、眉毛濃く目細き方
一、鼻筋通り色白き方
一、月代(さかやき)薄く耳大きな方
一、口 常体(ふつう)
捕物に失敗した助五郎はその後、不行き届けがあったということで捕縛され、70日余り入牢する羽目になった。大親分の助五郎を向こうに回し、劇的な逃亡を果たした繁蔵だが、一体どんな人物だったのか。
■笹川繁蔵はどんな人物だったのか
繁蔵は、下総国香取郡須賀山村(すかやまむら)で、代々醤油や酢の醸造業を営んでいた名主・岩瀬嘉三郎(かさぶろう)の三男として生まれた。当時の渡世人には珍しく、幼少期に剣術、漢学や算術などを教わっていた繁蔵だったものの、腕っぷしが強かったこと。そして、都市部ばかりでなく、関東一帯の農村部にまで至った、「プロ」が行う相撲興行の流行と人気に影響されたのだろう。繁蔵は成人すると江戸へ出て、相撲の千賀ノ浦部屋に入る。1年ほど修行を積んでいたが廃業し、1831(天保2)年に故郷に戻った。博打での金離れがよく、度胸も腕力もある。そして男振りもよかったという繁蔵は、多くの子分を従えるようになっていた。そして1年ほどで、常陸国芝宿(しばじゅく、現・茨城県潮来市上戸(いたこしうわど))を縄張りとしていた文吉親分に見込まれる。