天保水滸伝に登場する笹川繁蔵こと岩瀬繁蔵の不慮な死と死後の偶然 (3/8ページ)
その中には天明3(1783)年以来、旱魃・洪水などによる米の不作が続き、生活が成り立たなくなっていた農村部から離脱し、手っ取り早く「日銭」を稼ぎたい人々も多かった。そうなると、集まってくる人々を対象とした、いわゆる「飲む・打つ・買う」の盛り場が繁盛する。「徳川様」のお膝元であるがゆえに「盛り場」そのものや、よそから流入した「渡世人」などに対する幕府の取り締まりや町内での制裁が厳重であった江戸市中よりも「監視の目」が届きにくい利根川流域のような、いわゆる「田舎の盛り場」は、無頼の徒が闊歩しやすい。しかも「ここ」は「田舎」であるにもかかわらず、伝統的な「農村社会」とは大きく異なる。貨幣経済の発展・浸透によって、「江戸市中」のような「最新流行」の生活風俗を体験できる「場所」でもあったため、その華麗さ、享楽性に惹きつけられる人々も多かった。こうした、実に「混沌」とした「場所」、そして人々をまとめ上げ、秩序を保つには、親分衆の「凄み」や「睨み」が必要とされてもいた。そうは言っても、たとえ未熟な「若い衆」であったとしても、力と度胸さえあれば、古株の親分を制し、自らがトップに上り詰めることができる「場所」でもあったのだ。
■天保水滸伝は笹川繁蔵と飯岡助五郎が縄張り争いをする史実に基づく話
『天保水滸伝』で描かれたのは、このような利根川の下流域で、現在の千葉県香取郡東庄町(とうのしょうまち)の笹川河岸を舞台とした、「売り出し中」の親分・笹川繁蔵と、同じく侠客でありつつも網元で、関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模)の悪党や博徒、無宿者を取り締まる関東取締出役(しゅつやく/でやく)の「道案内」、すなわち、情報収集や取り締まり、召し捕り(逮捕)の際の手助け役として十手(じって)を預かっていた、いわゆる「二足のわらじ」をはいていた大親分・飯岡助五郎(いいおかのすけごろう、1792〜1859)こと石渡(いしわたり)助五郎との縄張り争いの詳細だ。