天保水滸伝に登場する笹川繁蔵こと岩瀬繁蔵の不慮な死と死後の偶然 (6/8ページ)

心に残る家族葬



■笹川繁蔵に訪れた不慮な死


しかし、7月4日に限って…油断していたのか。賭場を終えて、子分と一杯やった後、豊子のところに行こうと思い立った繁蔵は、いつもなら肌身離さず身につけていた鎖かたびらを蒸し暑さからか身につけず、長着1枚だけを羽織っていた。しかもいつもの子分たちも断って、ひとりで歩いていた。兄・嘉三郎の家に立ち寄り、長居はせずに、豊子のところに向かっていた。地元の人々に「ドンダラ川」と呼ばれていた桁沼川(けたぬまがわ)に架かる、増水のたびに毎年「よく崩れる」橋ということで「ビャク橋」と呼ばれていた橋の脇の榎の木のかげに、かねて繁蔵の命を狙っていた飯岡方の3人が身を潜めていた。繁蔵が近づいてきたところで、1人が槍で突き刺し、残りの2人がとどめを刺した。更に彼らは繁蔵の遺体を笹川土手まで引きずっていき、首を刎ね、助五郎のところに持っていった。胴体は叺(かます、藁の袋)に入れて、川に捨てたという。繁蔵、38歳の若さだった。

繁蔵がこの日、いつものように護衛役の子分を引き連れ、鎖かたびらを身につけて用心していれば、命を落とさずに済んだのだろうか。

■笹川繁蔵の死から85年後に起こった不思議な出来事

川に遺棄された繁蔵の胴体は、事件後数日経ってから、銚子の利根川河口で漁師の網にかかった。誰の遺体であるかが判別できなかったのだろう。無縁墓地に葬られていた。しかし、繁蔵の遺体が見つからなかったこと。また、岩瀬家代々の墓所に葬ることは、繁蔵が「侠客の親分」だったことから、叶わなかったこともあり、ビャク橋周辺の血まみれの土を集め、近在の共同墓地に葬られていた。時を経て、明治7(1874)年に、妻・豊子が石碑を建てた。それから更に11年後、岩瀬家の菩提寺・西福院(さいふくいん)内の、先祖代々の墓に祀られた。

しかし、それで「終わらなかった」。繁蔵の死から85年経った昭和7(1932)年8月、銚子町(現・銚子市)の道路拡張工事を行なっていたところ、繁蔵の墓石と胴体の骨が発見されたのだ。
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