小者だからと侮るな!戦国時代、毛利家三代に仕えた歴戦の勇士・相嶋光久の武勲 (2/4ページ)
元服した五郎次郎は光久と諱を定め、毛利家臣の国司元相(くにし もとすけ)に小者として仕えました。
小者(こもの)とは武家に奉公していても武士の身分ではなく、下男や人夫に近い立場です。
それでもいつか武士になれることを夢見ていたのか、あるいは飯さえ食えれば何でもよかったのかはともかく、日夜奉公に励むのでした。
歴戦の勇士として活躍する光久光久の初陣は18歳となった天文22年(1553年)4月。備後国(広島県東部)の国人・江田隆連(えだ たかつら)の籠もる旗返山城を攻めた折、敵を討ち取る武勲を立てます。
この活躍によって天文23年(1554年)12月、光久は安芸国高田郡佐々部(広島県安芸高田市)に5段の給地を賜わりました。
段(きだ)とは田畑の面積を表す単位。町(約9917.36平米≒約1ヘクタール)の1/10なので、およそ0.5ヘクタールとなります。
晴れて自分の領地を持つことが出来た光久は、やがて妻(素性は不明。身分相応の女性と推測)を娶って男児(後の相嶋元光)を授かりました。
この時点で立派な武士ではないかと思うのですが、あくまで毛利家中における光久の扱いは小者。よほど人材層が厚く、これしきではまだまだだったのでしょう。