太平記の巻十に登場する新田義貞と東村山市の徳蔵寺にある元弘の板碑 (3/7ページ)
飽間斎藤三郎藤原盛貞 生年 廿六
勧進 玖(補・阿弥)陀仏
於武州符中(=府中)五月十五日令打死(=討死)
癸 敬
元弘三年(1333年) 五月十五日
酉 白
同孫七家行廿三同死飽間孫三郎 執筆 遍阿弥陀仏
宗長卅五於相州村岡十八日討死
■元弘の板碑には何が刻まれているのか
それによると、新田義貞方の武士・飽間(あきま)斎藤三郎藤原盛貞(もりさだ)(26歳)と飽間斎藤孫七家行(いえゆき)(23歳)が元弘3(1333)年の5月15日に、武蔵國の府中で討死した。そして飽間斎藤孫三郎宗長(むねなが)(35歳)は、相模國の村岡(現・神奈川県藤沢市)で5月18日に討死した。この3名を供養するため、吾妻村(現・埼玉県所沢市久米)の時宗の寺・長久寺(ちょうきゅうじ)の開山である玖(きゅう)阿弥陀仏(生没年不明)が板碑造立のために浄財を集め、その碑文をしたためたのが同じく、僧侶の遍(へん)阿弥陀仏(生没年不明)ということだ。
■元弘の板碑と太平記の関係性
飽間氏は、平安時代前期の貴族・藤原利仁(としひと、生没年不明)の末裔と称し、上野國碓氷荘飽間郷(現・群馬県安中市)を拠点とする御家人(ごけにん。中世においては、鎌倉幕府と主従関係にある武人)だった。板碑に記された没年の前年である元弘2(1332)年の正月に、後醍醐天皇(1288〜1339)を奉じ、鎌倉幕府打倒を目指していた楠木正成(1294?〜1336)の本拠・河内國千早城(現・大阪府南河内郡千早赤坂村)に新田義貞と共に攻め上っていた。しかし義貞は吉野の後醍醐天皇からの手紙を受け、朝廷側に立つことなり、翌年の5月8日に生品(いくしな)神社(現・群馬県太田市)で挙兵した。そして22日には鎌倉幕府第14代執権・北条高時(たかとき、1304〜1333)を攻め滅ぼした。その経緯は『太平記』に詳しいが、この板碑と関連する事柄は、12日の久米川(くめがわ。現・東京都東村山市諏訪町)合戦、15日の分倍河原(ぶばいがわら。