太平記の巻十に登場する新田義貞と東村山市の徳蔵寺にある元弘の板碑 (4/7ページ)

心に残る家族葬

現・東京都府中市)合戦、18日の洲崎(現・神奈川県鎌倉市深沢)での合戦だ。先の3人のうち、飽間盛貞と家行が亡くなったのが、鎌倉方の大将・北条泰家(?〜1335?)と一進一退の攻防を展開した分倍河原の合戦だったのか、またはその近在で、『太平記』に記載されなかった合戦だったのかは不明だ。しかし残りの1人、宗長は洲崎からさほど遠くない村岡で亡くなっていることから、この板碑が『太平記』の記述の、歴史的信頼性を裏づけているものだと言えるだろう。

■元弘の板碑の造立と時宗

そして板碑造立に関わった玖阿弥陀仏と遍阿弥陀仏はいずれも時宗の僧である。時宗は鎌倉時代後半に登場する仏教集団で、一遍(1239〜89)によって開かれた。神奈川県藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)を本山と定めているが、本来は遊行(ゆぎょう)を行い、寺院を持たないあり方を理想としていた。教勢は鎌倉幕府滅亡後の室町時代にさかんになり、一世を風靡した。2人はいずれも「阿弥陀仏」号を称しているが、それは仏様を意味するものではなく、時宗の僧によく見られるものだったという。しかも鎌倉末期〜南北朝期においては、時宗の僧侶(時衆、じしゅ)が陣僧(じんそう/じんぞう)として、出陣する武士団に随行し、戦傷者の治療のみならず、死の間際の武士に念仏を唱え、往生を遂げさせたり、戦死者の供養に当たったり、更には遺族に、亡くなった武士の奮戦の報告などを行なったりしていたという。それゆえこの板碑は、当時の時宗における信仰、死者の埋葬や供養のありようを如実に物語るものでもあるのだ。

しかも徳蔵寺においては、板碑保存館で保管・展示されている板碑の供養が年中行事となっている。歴史家の今立鉄雄によると、昭和39(1964)年3月に、寺内に所蔵されている板碑などを整理することになった。その作業が8月に最終段階となった。そこで、板碑に名前が記されている人々、板碑によって供養された無名の人々がおられる。それらは古くは700年、新しいもので400年を経て無縁の仏となっているため、板碑の供養をしようということになった。それで第1回の板碑供養が秋の彼岸の折に営まれた。それ以来毎年途切れることなく、徳蔵寺では板碑供養が執り行われている。

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