太平記の巻十に登場する新田義貞と東村山市の徳蔵寺にある元弘の板碑 (2/7ページ)

心に残る家族葬

しかし、応仁の乱(1467〜77)から戦国時代(〜1550年)になると減少し始め、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦以降、徳川家康による天下統一の頃までには、板碑供養の風習は何故か消失してしまった。その理由は、緑泥片岩などの貴重な石材を遠方から調達し、それを用いて専門の職人につくらせるより、費用も時間もかからない簡便な板の卒塔婆による供養が主流となる、何らかの宗教的傾向の変化が生じたのか。または本来は「よそ者」で、今日の関東圏とは違う慣習・風習を生きていたであろう徳川家の影響なのかは、今のところ判然としていない。

■徳蔵寺所蔵の元弘の板碑について


徳蔵寺所蔵の「元弘の板碑」はもともと、関東平野西部に広がる狭山(さやま)丘陵の東端で、埼玉県所沢市と東京都東村山市諏訪町との境にある八国山(はちこくやま)の南斜面に所在していた庵(いおり。僧尼の住む場所)・永春庵(えいしゅんあん)に立てられていた。造立時期は、碑文にある元弘3(1333)年以降、今日の年忌供養の最長、三十三回忌を考慮するなら1365年前後。遅くとも1400年代初頭までだと考えられている。それは、1400年代の半ば過ぎになると、ほとんどの板碑が小型化し、表面の磨きや彫りの技がこの板碑と比して、「雑」なものになっていくからである。

この板碑の頭部は欠損しているものの、現存部分の全長は147cm、上幅42.5cm、下幅46cm、厚さ6cmである。碑の表面上部には、梵字の光明真言、「オン アボギャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ、ウン」(霊験あらたかな大日如来の大象徴たる寶蓮華(ほうれんげ)光明を持つ御身よ 罪過(ざいか)を軽滅して菩提を得(えさ)しめ給え)が5行23文字彫られている。その下には、以下の祀られている3名の情報と、勧進者、執筆者を読み取ることができる。

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