「鎌倉殿の13人」義高、助かるかも?期待させておいてからの…第17回放送「助命と宿命」振り返り (6/8ページ)
『吾妻鏡』によると武田信義は文治2年(1186年)に59歳で病没したと言われます。しかし同じ『吾妻鏡』で建久元年(1190年)の頼朝上洛に随行していたり、建久5年(1194年)の東大寺造営などに参加していたりなど、記述に矛盾が見られます。
この場合、文治2年(1186年)に没したのが信義でなかったか、あるいはその後も活躍したのが信義でなかったかのどちらかに。
いずれにせよ、武田が甲斐源氏の実力者として相応に重んじられ、信義の子孫たちも大いに活躍しています。
藤内光澄(演:長尾卓磨)光澄「謀叛人、源義高。この藤内光澄が討ち取りました!」
任務を忠実に遂行した結果として、下されたご褒美が梟首(きょうしゅ。さらし首)とはこれ如何に……。
劇中ではただ斬った(首はつながっている)まま、固瀬川(現:境川下流域。神奈川県藤沢市)に転がされていました。
トップの心変わりで急遽命令を変更したものの、末端の現場に連絡がいかず、怒りを買ってしまった藤内光澄。現代社会でも、こういう事ってしばしばありますよね。