「鎌倉殿の13人」義高、助かるかも?期待させておいてからの…第17回放送「助命と宿命」振り返り (5/8ページ)

Japaaan

しかし義高は父の遺訓を守ってこれを峻拒。改めて大義に生きた義仲の大器と、その精神をしっかりと受け継いだ義高の男ぶりが際立ちます。

やがて義高が討たれると、義高を救えなかった八つ当たりとばかり忠頼は誅殺。信義は起請文を書かされ、頼朝の軍門に屈する形となりました。

信義「謀叛とは何か!謀叛とは家人が主人に対して行うこと。わしは一度も頼朝を主人と思ったことはないわ!」

武田信義。菊池容斎『前賢故実』より

こうして義仲に次いで信義も源氏の棟梁争いから脱落。源氏の中で頼朝に対抗しうる存在はいなくなったのでした……今のところは。

信義「この武田信義、頼朝殿に弓引くつもりなど微塵もなかった。息子は死ぬことはなかったのだ!」

ちなみに『吾妻鏡』によると信義が頼朝に対して「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」き旨を起請文に書かされたのは養和元年(1181年)のこと。

その理由は、後白河法皇が信義に対して頼朝追討を命じたという風聞が流れたためと言われています。

また、忠頼が粛清されたのは元暦元年(1184年)6月16日とドラマでは粛清と起請文の前後が逆に。

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